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「日中国交正常化提言」40周年 2008年9月8日

Filed under: 佳文共賞 — Belinda Shyu @ 11:51 午後

日中国交正常化30周年に寄せて――池田提言と周恩来
  M.S.

池田名誉会長は1968年9月8日、第11回学生部総会の席上、日中国交正常化提言を発表(日大講堂で)

 本年(2002年)は、日中国交正常化30周年に当たるが、戦後永らく閉塞した状況におかれていた日中関係を改善させ、国交正常化への道を開き、今日の日中友好の華を咲かせたのは、紛れもなく1968年9月8日に行われた創価学会第11回学生部総会における池田先生の日中国交正常化提言である。当時の日本および中国を取り巻く国際情勢を考えれば、池田提言が如何に画期的かつ革新的であり、国交正常化を願う多くの人々に希望を与えたものであったかがわかる。1968年といえば、ベトナム戦争は継続中であり、学生部総会の前月にはチェコ動乱が勃発し、まさに騒乱とした状況であった。日本は、東西冷戦の中で西側の一員として、中華民国(台湾)が唯一合法の政権であるという立場を崩さず、中国の共産政権を認めるどころか、敵視していた。松村謙三氏や高碕達之助氏らの尽力によって友好関係の糸は繋ってはいたが、国交正常化という道筋はほとんど立てられていないという状況であった。一つの中国、一つの台湾という考え方も提示されたが、そのような妥協的な弥繕策は、中国側が到底呑める話ではなかった。

 一方中国においても、1966年に文化大革命が勃発し、国交正常化の道は深く閉ざされてしまった状況にあった。文革の本質は、今日では毛沢東の奪権闘争であったことが明らかとなっているが、その運動論は西側の文化、文明、資本主義の徹底的な批判に留まらず、中国の伝統的な思想、文化、風俗、習慣(四旧)の打破という破壊的、狂信的なものであった。その上に、毛沢東の個人崇拝と毛沢東思想の絶対化という教条主義が重なって。多くの無婿の人民が悲劇的な運命を辿ったのである。当時、日中国交正常化ということを持ち出せば、「走資派」として弾圧の対象になりかねなかったと思われる。

 このような中で周恩来は、文革がこのまま進行すれば西側諸国との断絶による国際的孤立化を招き、中国の近代化を大幅に遅らせてしまうことを深く憂慮していた。更には、毛沢東の陰にいる江青ら四人組の権勢が増大することは、中国を大混乱に陥れ、中国人民に取り返しのつかないほどの大きな損害を及ぼすことを深く危惧していた、しかし、文革はそもそも毛沢東が発動したものであるため、その嵐を押さえることは容易ではなかったのである。そして何よりも危機的であったのは、四人組の最終攻撃対象が周恩来に向けられていたことであった。周恩来は、早くから西側とりわけアメリカ、日本との関係改善および国交正常化の道を開こうと尽力していたが、文革の嵐によってそれはまさに頓挫しようとしていた。

 このよう日中双方において閉塞した状況下で、池田提言がなされたのである。池田提言は、一点の曇りもない明確な提言であった。そのポイントは、(1)中国の承認、(2)中国の国連議席回復、(3)日に中首脳会談の実現、(4)経済的文化的交流の拡大、および(5)日中貿易の抑制を意図した「吉田書簡」の破棄である。この内容から、保守派を中心に多くの批判を浴びたが。日中友好を希求していた多くの人々には大きな勇気と希望を与えた。中国文化研究者の竹内好氏は「光はあったのだ」という一文を寄せ、その先見性と卓見を高く評価したのである。そしてその光は、周恩来の心にも届き、この提言を国交正常化への道筋とすべく全力を傾倒したのである。文革は継続中で、国内は混乱を極めており、四人組との闘争を続けながら国交正常化の道を切り開いていくことは、並大抵のことではなかった。周恩来の確固たる信念と強靱な精神力がなければ、とても実現不可能な話であったのである。

池田会長(現・名誉会長)が第2次訪中。北京市内の第305区病院で周恩来首相と会見(1974年12月)

 周恩来は、国交正常化の最大の難関であった国家賠償の問題を、その高潔な精神性と寛容の精神により、霧を晴らすように解消した。それは、国家賠償の放棄という大英断であった。日本の侵略によって多大の被害を被った中国人民にとっては、賠償放棄は承服できない話であったはずである。しかし周恩来は、日本軍国主義と日本人民とを明確に区別し、日本人民も日本軍国主義の被害者であるとの考えから、中国人の復讐心を眠らせ、人民同士の友好への道を切り開いたのである。そしてその結果、1971年に中国は国連の議席を回復し、翌1972年には日中国交正常化が実現したのである。周恩来は既に病魔に冒され、更には四人組との闘争も苛烈を極めていた。その中で、まさに命がけの仕事であった。日中国交正常化は、池田提言という光とそれに呼応した周恩来という傑出した指導者の成し遂げた歴史的偉業であり、どちらが欠けても実現しなかったはずである。1974年12月5日、池田先生と周恩来の歴史的会見は、最初で最後の出会いとなった。その2年後の1976年1月、周恩来は静かに息を引き取ったが、その死を悲しむ人民の慟哭が四人組を滅ぼし、中国を大混乱に陥れた文革を終焉させたのである。

周総理が信頼し、中国の未来を委ねた鄧小平副総理と2度目の会見、副総理は両国の関係発展について「池田SGI会長に感謝しています」と『日中平和友好条約』は、この会見から3年後の1978年に調印された(1975年4月・北京)

中日友好の歴史と未来

 

文・朱新建(中国・湖南師範大学客員教授)

池田名誉会長こそ周総理と人民の真の友人
 去る5月30日、池田大作名誉会長の中国初訪問から32周年を迎えました。中日友好への一貫した行動には、感謝の念に堪えません。

 思えば、1968年(昭和43年)9月8日、名誉会長(当時、会長)が創価学会の第11回学生部総会の席上、歴史的な「日中国交正常化提言」を発表したことによって、両国の友情の道は大きく開かれました。

 当時は、東西冷戦の渦中。日本政府も中国敵視政策をとっており、両国の融和を図る発言をすれば、命に危険が及びました。

 その状況下で発信された、まさに“命懸けの提言”。その4年後には、ついに国交正常化が実現しました。この提言がなければ、両国の友好の歴史は、もっと遅れていたでしょう。世界史から見ても、非常に大きな意義があるのです。

 あの時、名誉会長はどのようなお気持ちだったのでしょうか。提言を耳にした学生たちも、驚きを禁じ得なかったに違いありません。

 その内容を本国に最初に打電した「新華社」の日本特派員・劉徳有氏は、あの提言を「日中友好の歴史の道標」と語っていました。

 この提言が発表された当時、私は十三歳。湖南省の田舎の零陵県に住んでいました。私の父は、新華社発行の海外報道紙「参考消息」を読み、その内容を知ったようです。後年、私が廈門大学の日本語学科に進学するかどうか悩んでいた際には、父が後押しをしてくれました。「日本にも正しい人物はいるのだよ」と。その言葉の意味は、大学進学後に明らかになりました。

 大学で私は、1940年代から周恩来総理の通訳を務めた3人の教授と出会いました。その先生たちを通して、初めて創価学会、そして池田名誉会長のことを知ったのです。かつて軍国主義でわが中国を蹂躙した日本に、このように偉大な人物がいることに大変驚いたことを、今でも鮮明に覚えています。

 周総理の通訳だった方々ですから、総理の言動をすべて正しく伝えなければなりません。私も学生時代、その方々から正確な事実をこの耳で聞きました。

 「民をもって、官を促す」との信念に立つ総理は、民衆の中から湧き上がった学会を、早くから注目し、詳細に調査されていました。そして1974年、病の体をおしてまで、名誉会長と会見されたのです。

 両国の未来を託した周総理。名誉会長はその期待通りに、今日まで友誼の道をまっすぐに歩んでおられます。真の友人は一体誰か。周総理、そして中国人民は、はっきりと知っているのです。

 

「忘恩負義」の竹入は勘違いの小人

 一方で、友人を装い、中日友好をあたかも自分一人でやったかのような発言をしている「小人」もいます。公明党元委員長の竹入義勝です。

 中国では、“中日友好に貢献した”“周総理と何度も会見した”と言えば、それだけで無条件に尊敬を集めます。竹入はそれを巧みに利用した。

 “国交正常化は政治レベルで”と、名誉会長から託されたにもかかわらず、その期待を完全に裏切りました。大勢の公明党支持者に対する背信行為でもあります。

 政治家をはじめ、公的な立場にある人間は「大公無私」、すなわち民衆のために、私心なく行動しなければならない。それにもかかわらず、何という高慢か。

 名誉会長が「日中国交正常化提言」を発表する以前から、いかに両国の友好を考え、行動を起こしたことか。竹入は身のほどをわきまえるべきです。

 そもそも竹入に、外交能力があったのかどうかも疑わしい。実際、中国を訪れるたびに宝石漁りばかりしていたそうです。単に、名誉会長が創立した公明党の当時の委員長であったという以上のものはありません。

 また総理は、中日友好について、決して自らの功績にしようとはしなかった。どこまでも毛沢東主席を立て、中国、そして世界の平和のために尽くされました。ゆえに、真実を知る国民は、今もって周総理を心から信頼し、尊敬しているのです。

 反対に、公然と“自分がやった”云々と発言する竹入は、日本でも、まったくと言っていいほど相手にされていない。名声や欲望にとらわれていることを、見透かされているからでしょう。

 学歴詐称の発覚の事実についても、あきれてものが言えません。

 中国では、中国共産党に入党する際、その人物の履歴書が、国内の卒業校から党本部に事前に送られています。ゆえに、不正を働くこと自体、不可能と言われています。

 中国における学歴は、その人物の人間性を表します。自らの人間性をねじ曲げ、揚げ句の果てには、自らの力で政治家になれたと勘違いをした竹入。これはもはや、何か錯覚を起こしてしまったとしか言いようがない。

 中国の格言に「忘恩負義」という言葉があります。「恩を忘れ道義に背く」という意味です。

 要するに竹入は、人間にとって一番大切な「報恩」の心を忘れてしまった。人の道を踏み外してしまったのです。

 周総理、そして池田名誉会長がどれだけ偉大か。これらの点だけを見ても、はっきりとわかります。

青年よ周総理と名誉会長に続け

 先日、私は、今年3月にオープンした創価大学の北京事務所を訪れました。中日友好の新たなシンボルとして、大きな役割を果たしゆくことを確信するとともに、常に両国の未来を見据えた行動をし続ける池田名誉会長を、心から尊敬します。

 私が、初めて名誉会長との出会いを刻んだのは、1998年12月、創価大学を訪問した折のことです。

 その日はまず、キャンパスの「周桜」を見学。多くの創大生の熱烈な歓迎は、今もって忘れることができません。

 またこの日、創大では第8回「第九」演奏会があり、中国・厦門大学の紀太平教授、愛知学院大学の糸井川修助教授(中部学術部書記長)とともに招待され、出席しました。その際、思いがけなくも、名誉会長と対面することができたのです。

 演奏会終了後、名誉会長は指揮者らを激励しながら、私にも「先生のことは、よく存じ上げております」と声をかけてくださいました。あらゆる点に心を配る姿に、偉大な人物とは、このような人のことであると強く感じました。中国人民が尊敬してやまない周恩来総理とお会いしたような気持ちになりました。

 翌年の9月にも、再会する機会が。名誉会長に対する湖南師範大学「名誉教授」称号の授与が、東京牧口記念会館で実現したのです。

 名誉会長は、かつて日本軍が、わが故郷の湖南省の長沙を3方面から侵略し、攻撃した事実に触れながら、日本の蛮行を深く謝罪されました。私たちの立場と気持ちをよく理解された発言に、心から敬服しました。

 また、牧口常三郎初代会長が若き日に教鞭をとった「弘文学院」で、湖南省からの多くの留学生が学んだ歴史を知り、大変驚きました。その牧口会長を讃えた会館での荘厳な式典に、感動が倍加しました。

 創価学会は、真の民衆団体です。牧口初代会長、戸田第2代会長の遺志を継ぎ、世界に燦たる偉大な学会を築き上げた名誉会長。その生き方と思想を真剣に学び、研究しなければならない――私は、名誉会長との出会いを通して、こう強く思ったのです。

 名誉会長には、これまで、中国の各界から140以上の顕彰が贈られています。また、中国の書店には著作が多数並び、図書館にも所蔵されています。中国の多くの学識者もその思想を学んでいます。

 

世界に広がる池田研究所 13の学術・教育機関

 そうした中、次々と誕生しているのが、“池田研究所”です。現在、中国をはじめ世界の13の大学や教育機関に設置されています。

 わが湖南師範大学でも劉湘溶学長が率先して研究者に呼びかけ、2002年1月にいち早く「池田大作研究所」を発足させました。

 所長である劉学長は、学生時代、哲学の授業で名誉会長の著作を学んだそうです。さらに劉学長は、中国の著名な研究誌「世界宗教研究」に名誉会長の思想と行動を探究した論文を発表するなど、その思想と学会の歴史に高い評価を寄せています。

 わが研究所では現在、北京大学「池田大作研究会」などが主催する国際学術シンポジウムに参加するとともに、16編の論文を収めた『人間性を愛し、生命を慈しむ―池田大作思想研究』を出版。着々と研究が進んでいます。

 私も、海外研究員として、名誉会長の著作やスピーチなどを通し、その深い思想と信念を真剣に学んでいます。

 その中で私は、名誉会長の文化・芸術貢献を研究していきたいとの気持ちが強まりました。

 名誉会長は、中国初の本格的な西洋美術展となった東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名作展」や民主音楽協会の招聘による「東方歌舞団」公演などを、民間レベルで推進されています。

 皆に最高の芸術を披露したい――この名誉会長の心を、大きく宣揚していきたいのです。そしていつの日か、中国の大学に「池田芸術学院」を設立できればとも思っています。

 さらには、名誉会長の「言葉の力」についても検証していきたい。

 かつて私は、学会行事の衛星中継会場に足を運んだことがあります。場所は離れていても、心に響く言葉の数々――名誉会長のスピーチを聞き、会場は笑顔満開。皆、手を叩いて喜びを表していました。

 名誉会長のスピーチ、そして多くの詩作などは、まさに言葉の芸術です。それらが持つ力について探究していくことも、後世にとって重要でありましょう。

 今、中日両国の関係は非常に難しい局面を迎えています。歴史認識などの課題が山積し、中国人民の日本を見る目も、大変厳しい。友人たちも、愛知学院大学等で教壇に立つ私に、「中国の留学生たちがひどい目にあっていないか」、「戦争の危険性はないか」と心配して尋ねてきます。

 しかし、私はきっぱりと答えています。

「心配することはありません。日本には、創価学会の皆さんがいます。中国人民を心から大切にする池田名誉会長がいます!」と。

 先日、私は学生部の友から機関紙「大学新報」の取材を受ける機会がありました。名誉会長の心に連なる青年が陸続と育ちつつあることに、大きな喜びを感じました。

 またこの夏に、200人の学会青年部の皆さんが中国を訪問することもうかがっています。

 周総理と名誉会長の平和と友好の魂を継承し、両国の次代を担い立つ若き連帯が大きく広がることを、心から念願し、期待しています。

 

 

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